祈年祭 (きねんさい)

池田宮司の祝詞奏上
神職の拝礼
瑞穂会常任委員の玉串奉奠

2月17日(水曜)曇り時々小雪 午前10時 拝殿において、神社役員・瑞穂会・諸産業の代表者のご参列を賜り、本年の五穀豊穣と諸産業の発展をお祈りいたしました。祈年祭は春の耕作の初めに際し、五穀豊穣をお祈りするお祭りで、「としごいのまつり」とも呼ばれます。「とし」とは稲の美称であり、「こい」は祈りや願うという意味で、お米を始めとする五穀の豊かな稔りを祈ることを意味します。農耕民族であった日本人は、豊作を祈ることは国家の安泰・国民の繁栄を祈ることに他なりませんでした。そのため祈年祭は国家規模で行われ、奈良時代の延喜神名式(えんぎじんみょうしき)によると、伊勢の神宮を始め、全国2.861社の神社で行われていました。

さて、今回の豆知識は、神職が身に着ける服装について説明いたします。今日の「祈年祭」というお祭りは、大祭式で行われる三大祭の一つで、神社のお祭りの中でも大きなお祭り、重要なお祭りとして位置づけられます。当神社の三大祭は、「祈年祭」10月の「例大祭」11月の「新穀感謝祭」となります。お祭りの規模によって、宮司以下神職の服装が異なり、今日の祈年祭では「正服」を着装しています。ご覧のように正服の色が異なりますが、これは神職身分によって色が異なります。神職身分「特級」「一級」の神職は「黒色の黒袍」、「二級上」「二級」の神職は「赤色の赤袍」、「三級」神職は「紺色の緑袍」となります。袴の色・柄も身分よって異なります。また中祭式のお祭り、1月の「歳旦祭」2月「紀元節祭」などは、白色の「斎服」小祭式のお祭り、毎月の「月次祭」は「狩衣」を着装するようになっています。

次回は、2月23日(火曜)天長節祭をお届けします。神主М

Ⅴ・ファーレン長崎必勝祈願祭

祓いを受ける高田社長・監督・選手の皆様
高田社長の玉串奉奠
吉田監督・秋野主将の玉串奉奠
左から、秋野主将・吉田監督・高田社長・池田宮司・後援会宮脇会長・県サッカー協会殿村会長
関係者での記念写真                         カッパ姿のヴィヴィ君

2月14日(日曜)曇り後雨 午後2時 Ⅴ・ファーレン長崎必勝祈願祭を拝殿において行いました。Ⅴ・ファーレン長崎高田春奈社長を始め、吉田孝行監督・秋野央樹キャプテン・Ⅴ・ファーレン長崎後援会宮脇雅俊会長・長崎県サッカー協会殿村育生会長、そして選手・コーチ・スタッフが参集い、J2優勝とJ1昇格を祈願いたしました。昨年は惜しくも3位で、J1昇格を逸した口惜しさをバネに本年こそは、再びJ1昇格を決めていただき、今秋には県民と共に喜びを分かち合いたいものです。

当神社では、Ⅴ・ファーレン長崎とコラボした「祈願絵馬」を正月から頒布しており、また明日2月15日から、「夢守り」「平和守り」を新たに頒布いたします。(HPお知らせをご覧ください)チーム理念と長崎らしさをテーマに謹製いたしました。「頑張れⅤ・ファーレン」「目指せJ1」

次回は、2月17日(水曜)祈年祭をお届けします。神主М

橿原神宮・皇居遙拝式 紀元節祭

橿原神宮・皇居の遙拝詞を奏上する神職
祓いを受ける参列者
長崎日の丸会代表の玉串奉奠
長崎大学学生代表の玉串奉奠

2月11日(木曜)晴れ 午前10時 紀元節祭に先立ち、神武天皇が国の基をお定めになられた理想を尊び、即位の地である橿原神宮を遙拝し、拝殿にて紀元節祭が行われ、我が国の建国を奉祝し、皇室・国家・氏子の平安をお祈りいたしました。このお祭りには、長崎日の丸会、長崎大学の学生の皆様にご参列いただきました。

紀元節は、四大節(しだいせつ・四方節・天長節・明治節)の一つで、明治6年(1873)初代神武天皇の御即位の日を奉祝する祝日に定められましたが、終戦後、GHQの意向により昭和23年(1948)に廃止されました。その後、国民の努力により昭和41年(1966)「建国記念日」として再び国民の祝日として制定されました。

次回は、2月17日(水曜)祈年祭をお届けします。神主М

玉園稲荷神社初午祭

諏訪神社本殿右手に鎮座する玉園稲荷神社
祝詞を奏上する神職
参拝者が祈願した祈祷木(初穂料 500円)

2月3日(水曜)晴れ 午前8時 玉園稲荷神社の初午祭を行い、氏子崇敬者の諸願成就と諸産業の発展をお祈りしました。

お稲荷さんと2月の「初午」との関係は、稲荷神社の総本社として知られる伏見稲荷神社の御祭神「宇迦御霊大神」(うかのみたまのおおかみ)が、伊奈利山(いなりやま)に降りた日が、和同4年(711)2月11日が初午の日であったことから、2月最初の午の日に祭礼が行われるようになりました。また、お稲荷さんのお使いとされる狐は、油揚げが好物であるため、初午の日には「いなり寿司」をお供えする風習もあるそうです。

2月11日(木曜)橿原神宮遙拝式・紀元節祭をお届けします。神主М

節分祭・火焼神事(ほやきしんじ)

祓いを受ける責任役員の皆様
門祓い・豆打ち祓い
責任役員の玉串奉奠
長崎鯨食文化を守る会会長 川島明子様の玉串奉奠
献上された鯨料理の三段重
献上された鯨カツと鯨の煮しめ料理
火焼神事 宮司の祝詞奏上
古札への点火

2月2日(火曜)晴れ 午後4時 拝殿にて節分祭、踊馬場において火焼神事が責任役員・長崎市消防団第6分団のご参列を賜り行われました。節分祭は、神前で清めた豆をまくことによって邪気を払い、春を迎えることを寿ぎ、更に一年間の無病息災をお祈りいたしました。火焼神事は、年末年始に納められた古いおふだ・御守り・正月飾りを焼納し、天高く昇る炎で御神霊をお送りする神事で、焼納奉仕を第6分団の皆様にご奉仕していただき、誠に有難く心より感謝申し上げます。

節分祭には、長崎鯨食文化を守る会様により鯨料理が神さまに献上されました。昨年は、長崎の郷土料理「鯨汁」を神さまに献上し、参拝者先着千名の方に食べていただきましたが、コロナ禍により豆撒き行事が中止となり、鯨汁の振る舞い行事の開催が叶わず残念でしたが、来年はまた再開していただきたいと思います。節分に鯨料理を食すのは、捕鯨国、日本の文化で節分に鯨を食べると「大きな幸せをつかむ」とか「大きく元気な子に成長する」など先人たちは願いを込めて鯨料理を食していたとされます。

恒例の年男・年女による豆まき行事は、昭和30年から始まり今年が67回目でしたが、新型コロナウイルス感染防止のため残念ながら初めての中止となり、豆まき奉仕者各位を始め、氏子の皆様には心よりお詫び申し上げます。

さて、皆さんもお気づきだと思いますが、今年の節分が2月3日ではなく、2日なのはなぜでしょうか。私も戸惑いましたが、調べてみると次のように解説されています。節分は「季節の分かれ目」であり、季節が変わる前日のことを指していて、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」があたります。現在の節分は、豆まきや恵方巻を食べる日「立春」の前日を指します。昔は冬から春になるのを一年の始まりと考えており、今の「大晦日」のように「明日から新しい年」と捉えていて、今年は立春が2月3日なので、2日が節分となるのです。そして立春は、年によって日にちが変わることがあるので、それに伴い節分の日も変動します。立春を始め、立夏・立秋・立冬など季節の節目がありますが、これは一年を24分割した「二十四節季」によって定めら、この「二十四節季」は、地球と太陽の位置関係によって決定されています。そして、過去2月2日が節分だったのが、明治30年(1897)で、なんと124年ぶり。また、昭和59年(1984)が2月4日、昭和60年(1985)から令和2年(2020)が2月3日となっていて、4年後の令和7年(2025)にまた、2月2日となる予定です。この決定は、日本では国立天文台の観測により決定されるそうです。

次回は、2月3日(水曜)玉園稲荷神社初午祭をお届けします。

成人の日祭

成人の日祭の祝詞を奏す神職

1月10日(日曜)曇り 午前8時 本年はコロナ禍により元服式を行わず、成人の日祭として、新成人の向後の活躍と幸せをお祈りしました。当神社の元服式は、昭和63年から始められ、新成人を迎えた成年男子に対し、元服式(加冠・命名・受盃の儀)を行います。

元服とは、奈良時代以降に武家の成人を示すものとして行われた儀式で、主に冠・烏帽子を与え向後の武運を願うものでした。また、成人の日は昭和23年に1月15日を祝日として制定され、大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝い励ますことを趣旨とされています。1月15日はもともと小正月に元服式を行っていたことに由来します。

次回は、2月2日(火曜)節分祭・火焼神事(ほやきしんじ)をお届けします。

新年月次祭

境内中庭から見渡す拝殿
雪化粧した西境内
池田宮司の祝詞奏上
大雪の中ご参列の役員・総代の皆様

1月9日(土曜)雪 午前10時 数年ぶりの大雪となり境内は一面雪景色、参拝者もほとんどありません。今日の祭典も悪天候の影響で欠席者が相次ぎましたが、責任役員を始め、総代の皆様方、28名のご参列を賜り拝殿において行われ、新年を寿ぎ皇室の弥栄と国家の安泰、氏子崇敬者の幸せをお祈りいたしました。本来であれば、祭典終了後に百名を超える総代さん方により、新年をお祝いする総代互礼会を行いますが、コロナ感染予防のため互礼会は取り止めと致しました。

正月三が日の参拝者も例年と比べ大幅に減少し、寂しい限りですが、一日も早いコロナ感染症の終息と平穏な日常が戻るよう願うばかりです。

次回は、明日1月10日(日曜)成人の日祭をお届けします。神主М

昭和天皇祭遙拝式・七草粥

昭和天皇祭遙拝詞を奏上する神職
炭火炊きの大釜での調理
出来上がった「七草粥」
例年の七草粥の人出

1月7日(木曜)曇り時々雪 午前9時 昭和天皇が崩御なさった日、武蔵野御陵(むさしのごりょう)で斎行される昭和天皇祭に合わせて、御神霊をお慰めする遙拝式を儀式殿おいて行いました。

また、恒例の七草粥の振る舞いはコロナ禍の影響により取り止めとなり、楽しみにされていた氏子の皆様に申し訳なく残念です。当神社の七草粥は直径80センチの大釜に十升の新米と七草を入れて、炭火で炊き上げます。約千名分を用意して二時間ほどでなくなります。毎年「温かくて、美味しい」と好評を得ております。来年の七草粥は、また多くの氏子の方々がお参りして、美味しい粥を召し上がってくれますよう願っています。

次回は、1月9日(土曜)新年月次祭をお届けします。神主М

鎮火祭・鎮火神事

鎮火祭で祓いを受ける参列者
鎮火神事のお供え物
木札に点火する池田宮司
鎮火神事
第六分団代表の玉串奉奠

1月5日(火曜)曇り 午前10時 儀式殿において鎮火祭、引く続き斎庭において鎮火神事を長崎市消防局・長崎市中央消防署・長崎市消防団第6分団・桜町地区連合自治会の関係者12名のご参列を賜り、この一年の防火と消防活動の安全を祈願いたしました。

このお祭りの始まりは、安政4年(1857)9月20日、古い注連縄・神具等を焼却中に強風にあおられた火の粉が斎庭の注連縄に降りかかり、その火が瞬く間に拝殿・本殿へと燃え移り大火となりました。当時居合わせた宮司以下神職、氏子等が消火に当たりましたが火の手を止められず、社殿及び社務所等は全焼しました。しかし、火の手が本殿に届く前に宮司以下神職は、諏訪・森崎・住吉の御神璽(御神体)を西山神社に遷御(せんぎょ・お運び)され、神さま方をお守りいたしました。この安政の大火後、鎮火祭として社殿防火と氏子中の火災防止を願い今に続いています。

次回は、1月7日(木曜)昭和天皇祭遙拝式・七草粥をお届けします。神主М

元始祭(げんしさい)

神職の玉串奉奠

1月3日(日曜)晴れ 午前9時 御本殿において行われました。このお祭りは、もともと明治維新後に定められた皇室祭祀の一つで、1月3日に天皇様自らが宮中三殿(賢所かしこどころ・皇霊殿・神殿)において親祭され、皇位の始源を寿ぐ祭儀です。現在では、各神社においても皇室の弥栄をお祈りする祭儀として行っています。

さて、お祭りでは宮司・神職並びに参列者が玉串を神前に捧げ、二礼二拍手一礼の作法でお参りしますが、それについて説明いたします。神前にお参りする際、捧げる木綿(ゆう・麻)や紙垂(しで)を付けた榊の小枝を玉串といいます。玉串の語義の由来は、神さまが木に宿られるということから転じて、神さまに対するお供えという意味で、真心を玉串に宿して神さまに伝える作法といわれます。手を二度打つ拍手の由来は、邪馬台国ことが記される中国の魏志倭人伝の中に、貴い人に対して敬礼の拍手の事が記され、三世紀のころには感激・歓喜・喝采などの感情を表す敬礼作法として、手を打つ作法があったことが伺えます。神前での拍手もこれと同様に考えられます。

次回は、1月5日(火曜)鎮火祭・鎮火神事をお届けします。神主М